これでは学習を無駄にさせるどころか、理解の邪魔にしかならない
全くどうしたらええねんと頭を抱えてしまう。
何か勘違いしているが、歴史教科書は国定の歴史書ではない。
歴史を学ぶための教材だ。
少なくともこれでは、学習の阻害になると思う。
くりかえす、無駄どころではない。
阻害だ。
この点下村大臣も全く理解していない。
彼らにとっては「国定歴史書」としてしか「歴史教科書」を見ていないため、「学ぶ」ことではなく「教えること」を重要視する。
そして、「教えられたことを信じること」が彼らのとっては「学習」であり、「学ぶ」ということなのであろう。
下村文部科学大臣は「歴史というのは光と影があり、影の部分のみならず、光の部分を含めバランスよく教えることが必要だ。そうした問題意識の下に検定基準を改正したが、すべての政府見解を載せるようにというわけではなく、独善的な歴史観や記述を増やすつもりも全くない。今回は教科書会社の努力もあって全体的にバランスがとれた方向にまとまりつつあると思う」と話しています。
この教科書が何故阻害するのか。
このまとめが親切だ。
まず、アイヌについて。
例えば、アイヌの近現代について書いた1点の教科書に「政府は北海道旧土人保護法を制定し、狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」という記述があり、これまでは認められていましたが、この法律の趣旨を生徒が誤解するおそれがあると意見がつきました。合格した教科書では「アイヌの人々に土地を与えて、農業中心の生活に変えようとしました」と、「取り上げて」が「与えて」に変わり逆の表現になっています。文部科学省は「法律の趣旨は土地を取り上げることではなかったため」と説明しています。
さきほどのまとめでもあったがtoriiyoshikiさんのTwitterを紹介したい。
歴史は「流れ」なので、その文脈から離れてある一点だけを取り出すと本質を見失う。確かに旧土人保護法(明治32年)で政府はアイヌの人たちに土地を「与えた」。しかし、それ以前の北海道地券発行条例(明治10年)において、アイヌの人たちの居住地を「無主の土地」として官有地に編入している。
— toriiyoshiki (@toriiyoshiki) 2015, 4月 7
つまり、奪ったものの一部、しかも官有地払い下げの対象にならず、和人の開拓者も入らなかった条件の悪いところをアイヌの人たちに「与えた」のである。こうした「流れ」を無視して、「アイヌの人たちに土地を与え…」と記述するなら、これは「間違い」というより、明らかな「嘘」である。
— toriiyoshiki (@toriiyoshiki) 2015, 4月 8
ぼくは北海道史の研究者でもなんでもないが、仕事で調べたことがあるのでその程度のことは知っている。そんな「素人に毛の生えた」レベルの人間ですら説得しきれない「嘘」を教科書に書くというのは酷い。歴史の「解釈」以前に「事実関係の無視」だからだ。教科書が「子ども騙し」をしてはいけない。
— toriiyoshiki (@toriiyoshiki) 2015, 4月 8
toriiyoshikiさんの言う通り、法律の趣旨を誤解させないようにと、歴史の本質を誤解させてしまうような記述をしてしまうのなら「歴史の教材」としての意味がない。
この教科書を採用してしまうなら。「反面教科書」としての副教材としてしか使えない。しかも、かなりの時間をかけて、他の教材を併用しないと使い物にならない。
つまり、アイヌの歴史の流れをきちっと学んだ上でのこの記述についてどう思うか、論じさせる授業になる。
これについてもそうだ。
さらに、関東大震災の発生後、混乱の中で殺害された朝鮮人の人数を「数千人」と書いた2点の教科書の記述には、「通説的な見解がないことが明示されておらず、生徒が誤解するおそれのある表現だ」という意見がつきました。
これを受けて教科書会社1社は、当時の政府など複数の調査結果や「虐殺された人数は定まっていない」という記述を加えたうえで、「おびただしい数の朝鮮人が虐殺された」と修正しました。もう1社は「自警団によって殺害された朝鮮人について当時の司法省は230名余りと発表した。軍隊や警察によって殺害されたものや司法省の報告に記載のない地域の虐殺を含めるとその数は数千人になるとも言われるが、人数については通説はない」と修正しました。
じゃあなにか。
内閣府が防災情報のページに記述があり、中央防災会議において災害教訓の継承に関する専門調査会が、「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月
1923 関東大震災【第2編】」として報告したことは通説でなく、でたらめなのか。
第2節殺傷事件の発生において、コラム8殺傷事件の検証として、数千人におよぶ「虐殺」を一体どう考えているのだろうか。
中央防災会議において報告されたこの検証は一体何だったのであろうか。
東日本大震災や阪神大震災を経験する災害国の日本において本来の災害教訓の継承は重要ではないか。
「通説的な見解がないことが明示されておらず、生徒が誤解するおそれのある表現だ」
と意見を付けるよりも、むしろ災害教訓の継承に関する専門調査会の
事件後から現在に至るまで続けられている殺傷事件の検証は、事実の解明と周知を通じてのこの種の事件の再発防止を意図した活動として、防災上も評価すべきであろう。
という提言をもとに歴史における災害教訓として、むしろ、コラム8のようなものを紹介すればよいものを修正してどうするんだ。
加えるなら
9月、東京の路上で: 【俯瞰的な視点② いったい何人が殺されたのか】
「朝鮮人虐殺はなかった」はなぜデタラメか | 関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する
などどうか。
副教材として
を生徒に紹介して考えさせるということも大事だろう。
この修正もまた、アイヌのところの記載と同じように、歴史の本質を見失いかねなくなるし、誤解させる。
「現在、日本政府は『慰安婦』問題について『軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような資料は発見されていない』との見解を表明している」という記述が加えられました。
これも同じ。リンク先を詳しくはみてほしい。
この記述に関してはもはや虚偽まるだしである。こんなんいいのか。
下村大臣はもはや手遅れとしても、教科用図書検定調査審議会において委員となっている方々はもう少しきちんとお考えになった方がよいのではないか。
少なくとも、自分の研究室の教材において、こんなのを使って指導してるのだろうか。それが学問の道なのであろうか。
これじゃあ、大学1回生の講義において常にこのセリフから始めないといけないだろう。
「今までの学習は忘れてください。これからの学習において無駄どころか、理解の妨げになるから」
「新しい歴史教科書を作る会』の教科書が「検定意見が上限を超える状態」で、さらには「断定的な記述や史料の扱いが適切でないところがあり」、「生徒が誤解する表現が多数みられる」ともはや「歴史教材としてダメ出しをされて」いるのにもかかわらず、やったった顔で語る代表執筆者の痛さ加減はどうしたらいいのか。
いったん不合格となったもう1点は「自由社」の教科書で、検定意見が上限を超える358か所に上り、「断定的な記述や資料の扱いが適切でないところがあり、生徒が誤解するおそれのある表現が多数見られる」と指摘されました。(略)
「自由社」の教科書の代表執筆者で「新しい歴史教科書をつくる会」の杉原誠四郎会長は「自虐的な見方を克服し、子どもたちが日本を誇れるような教科書にしたかった。バランスを求められて表現が後退した部分もあるが、自分たちが書きたかったことは書き込めた」と話しています。